Plurarity Tokyo Session1 Slido 質問
このミーティングに参加しているような層と、techや政治に対して諦観している層の間は分断されています。前者は前者のコミュニティで固まり議論し、結果蛸壺化し、後者から「意識高い人」と揶揄されています。逆に後者のことを前者は「情弱」と切り捨てることすらあります。互いの層がお互いにrespectを取り戻すには何が必要ですか?
テクノロジーと資本主義によって格差が広がった。その影響を受けて貧困になった人たちが、テクノロジーを通して民主主義が悪化した。民主主義に合うテクノロジーを再設計することで、貧困層は救われるのか?それが結果トランプになるのではないか?
Pluralityを議論している方々よりも、煽り運転をするような層の方が世界中でまだマジョリティだと思いますが、 熟議というのは知的レベルの分布に関わらず成立できるものなのでしょうか?
GitHubのようにテクノロジーが誰にでも開かれていても、実際使える人は少ないので「誰にでも」開かれてはいない。どんなUIUXならユニバーサルに政治参加できるのか?それがいい結果を生むのか?
Pluralityが掲げる「多様な参加」と「協働的な熟議」は、参加する人が限られたり、話し合いが深まらないといったこれまでの物理的な市民対話(例:自治体におけるタウンミーティング)の課題を、どう変えられると考えますか?また、AIと市民が一緒に意思決定する時、どんな考え方を大事にしていますか?
Plurality の思想に共感する一方で、普段の活動にシームレスに落とし込もうとすると難しい場面に遭遇します。どんな心持ちで、どんな領域でトライすると、まずは実践に結びつけていけると思いますか?
私がPlurarityを読んだ時、西田幾多郎の哲学や、清水清の場の理論との類似点を多く感じました、ただこちらの考え方に長く親しんでいたためPlurarityに違和感を感じる部分もありました。登壇者の方で西田喜太郎や清水博の理論とPlurarityの関係について橋渡しできる方はいないですか?
多数決による単一の「正解」ではなく、複数の異なる価値が並存する意思決定とはどのように可能でしょうか?
民主主義は利益相反という話がありましたが、これは国家予算の取り合いというパイの分け合いが再分配の主軸になっているからかと思いました。テクノロジーでより発展的なより良い社会をデザインするナッジを作れる可能性を感じています。これについてコメントいただけないでしょうか?
現在は大きい国・単一民族の国のほうが強い国になりやすいですが、Plurarityと民主主義のテクノロジーの発達により、小さい国や多民族国家がよりエッジの効いたチャレンジができて新しい国際関係のバランスを産みうるとも考えているんですが、これについてコメントいただけないでしょうか?
Pluralityという概念は素晴らしいと思う。ただ、難しすぎて一般人の大半には理解できないもしくは理解しようと思わないと考える。セミナーやコミュニティを作ったとしても、そもそもの興味、関心がない人にとって考えるきっかけはない。この概念は、マスアダプテーション必要だと2人は考えてる? そのための解決策は?
6 minutes ago
「最悪を避ける最小の悪」として民主主義を称え続ける私たちは、 その制度によって誰の声が恒常的に排除され、 誰のための合意が作られているのかに、どこまで自覚的でしょうか?Pluralityの名のもとに、我々は本当に「他者」と共に決める準備があるのでしょうか?
ゲーム理論がトップダウンとどうひもづくのですか
pluralityな世界において熟議が必要である一方で,意思決定の際には必ず意見を1つに集約していく必要があります。ボトムアップアプローチにおける「熟議」というのは、どんなスケールにおける「意思決定」に至るまでのプロセスを指しているのでしょうか?
(他の人の質問に対してなんですが)Plurarityは一つの意見に集約しないといけないというのは、思い込みかなと。議論によっては絞り込まないといけないものもありますが、絞り込む必要がないものもたくさんあるはずです。
昨年そちらのキャンパスでAIによる政策と創造性、というテーマで研究発表をした大学院生です。その中で私自身は検討した事項ではあるのですが、なぜ今日の民主主義において創造が必要なのか、示していただけると幸いです。
政治で、人に投票するのでなく、個別案件ごとに投票したい。それを実現できている国はあるのか?もしくは日本がそれに近づくことは出来るのか?
Pluralityを実際の政治や政策決定のプロセスに入れ込んでいく道のりについてみなさんの考え方を知りたいです。vtaiwanなどで実験は色々されていると思うのですが、たとえば日本の政治や政策に入れ込むにはどうしたらいい?
今日は日本におけるPluralityに関連する研究や学者の方の事例への共有がなされましたが、グレンさんとオードリーさんから見て、日本におけるPluralityに関して、他国の状況と比較して日本の特徴はありますか? (edited)
Pluralityという思想においては、「差異」こそが価値の源泉だとされています。しかし、我々はその差異を乗り越える=「信頼コスト」が発生します。記名性の高い空間ではそのコストが下がりますが、匿名性の高い空間において差異を価値の源泉としていくことはそもそも可能なのでしょうか?
いまの先生の質問アメリカのように裁判官と検察官も選挙で決めればいいよね
大学の資本主義化、学会の資本主義化、学問の自由が失われていることは政治にどのように影響するのか、また逆にPluralityの力はこの流れをリバースできるのか?